To me

優しすぎるわたしへ。

正しさを問う

 

 

 

正論だけが正しいことですか

正しいことだけが正しいことですか

 

義務を放棄することは、全てが悪いことですか

 

保護者には教育を受けさせる義務がありますが

学校に行くことが苦痛な子どもを学校に通わせることが正しいことですか

 

勤労の義務 納税の義務がありますが

身体と精神を蝕んでまで労働すること させることが正しいことですか

 

辞めることは間違っていますか

自分を守ることは間違っていますか

そこまでして守りたいものはなんですか

 

思い出して

見つけて

忘れないで

本当に大切なもの

 

 

 

思考と傷

 

 

 

「考え深いひと」

周りはわたしのことをそう言う

 

いつも、あたまでは、何かを考えている。それに違和感がなかった。

みんな同じだと思っていた。そうではないようだった。

 

考えすぎだと、もっと気楽に生きなさいと、ママは言った

でも、わたしは、考えすぎる自分が好きだと思った。

こうやって生きてきてよかったと思った。

 

何事に対しても、意見を持っていることに気付いた。

何を聞かれても、大抵なにか話せることに気付いた。

テーマに対して、何も出てこない人が不思議だった。

きっと、なにも考えてこなかったからだ。

 

こころは、みんな同じものをもって産まれると思っている。

傷ついている人も、能天気な人も、はじめは白だった。

育つ過程で、こころは色づいていく。

 

考えて生きてきたわたしは、少しだけ感じやすいこころを持つようになった。

それでも考えることをやめないわたしは、

きっと人よりも、自分の思考に傷ついてきたのかもしれない。

それでも、考えて生きていくことを、少しも躊躇う気持ちがない。

 

人より、多くを考えて生きてきた。

考えることは、豊かさを得ること。

 

人より多彩で、想像力のある人間になりたい。

人の痛みに寄り添える人間になりたい。

わたしは、「考え深いひと」でありたい。

 

 

 

置いていかれた水

 

 

 

 

別に薬が飲みたくないわけじゃないんです。

 

薬を飲みたくないとわがままを言っているわたしを受け入れてほしいんです。

そんなわたしごと、愛してください。

 

 

 「前はよく笑ってたけど、最近死にたいっていう」

傲慢だけど、死にたいわたしごと愛してください。

死にたいと思い続けていることが、わたしの自己統一性。

毎日死にたいと思うわたしだけは、わたしを裏切らないのです。

そんなわたしごと、愛してください。

 

 

愛されたかった

ねえパパ

わたしは小学生のとき、ほとんど100点のテストを見せていたと思う

それに対してあなたは別に何も言わなかったこと、覚えてますか

たまに90点を取った時、怒ったよね

「100点じゃない、完璧じゃない、勉強しろ」ってさ

きっと今妹が100点のテストを見せたら、すごいなって笑って抱きしめるのだと思う

今更羨ましいとか、そういうのではないと思っているけれど

もしかしたら羨ましいのかもしれない

あの頃のわたしは、パパに愛されたかったのだと思う。わたしにも、分かる形で。

100点以上になにをしたら、わたしは抱きしめてもらえた?

パパから感じられなかった愛情は、大きくなった今、ずっと探して歩いてるよ。

でも分かってる あの頃埋めたかったパパからの愛情は、今更埋めたところで無意味なこと  もう遅いこと

 

大きくなって、教育を勉強した今、

やっと言葉にできるようになった やっと求めているものに気付いた

ももうなにもかも遅いなんて、そんなのひどいよね

 

それなのに、こんな気持ち知りたくなかったとは思えなくて

だからこそ目指そうと思った教師という道があるし

この気持ちは経験しないと絶対に理解できないし

それは教師という職業に必ず繋がる。必ず。

こんなわたしにしか理解できない生徒の心が必ずある。救わなければならない。

 

 

「痛い」って言ったら心配してくれる人がいて

「会いたい」って言ったら会いに来てくれる人がいて

できないことを代わりにしてくれる人がいて

大事にしてくれる人がいて

疑うことなくそう思えて

幸せなんだよ

 

でもきっとパパの影を追ってるんだよ

絶対に今この人がいい

でも、それでもパパを追ってる

父性をずっと追い求めてる

 

ねえパパ いまさ 大事にしてくれる人がいるんだよ

 

 

 

600km

 

 

 

 

「知らなければ無いことと同じ」

 

恋人との距離は、「自由」で埋めてもいいし、「束縛」で埋めてもいい。

 

しかし、自由で埋めることは信用なのか、無関心なのか、各個人で解釈の仕方は違うようだ。

 

制約があることは窮屈に感じるだろう。

わたしはその窮屈さとも一緒に、恋愛したい。

お互いをまっすぐ見ているために、必要なことだと思う。少なくとも、わたしにとっては。

 

わたしは遠距離恋愛を何度か経験しているが、そのたびに、遠距離恋愛に必要なのは自由ではないことを思い知る。

遠距離恋愛において自由で距離を埋めることは、どうにも無関心なことのように感じてしまう。

 

恋人がそばにいないさみしさを埋めるためには、やっぱり生身の人間しかないのだ。

それが友達といることなら、いい。

 

相手が今どこでどうしているのか、そしてその情報は真実なのか、確かめる術はどうしてもない。

 

諦める、それしか方法はないと思った。

そしてそれは信用と、どうにも脆い糸で結ぶしかない。

 

「知らなければ無いことと同じ」

 

人は、「遠距離なのにどうして束縛するのか」と聞く。

その意は、どうせ離れているから分からないのに、ということだろう。

分からないからこそ、夜は奪うべきだし、遠距離だからこそ、門限というものが必要なのだと思う。

そしてそれを守ること、守ろうとすること、その気持ちこそがなによりも大切で、それこそ、それこそが、必要なのだ。

 

 

 

 

 

空白

 

 

 

 

「時間てさ すごい緩やかにわたしたちの間を流れていくわけ」

 

 

わたしたち、これから先もやっていけるのかな

5階から見下ろす地面は遠くて、落ちたら多分死ぬなって思った

でも落ちる勇気がないのが情けないところで。

クワで畑を耕しているおばあさんを眺めてるのがやっとだった。

 

迎えにきてくれないかなって思ってるめんどくさいわたしがいたりして

そんなわけないよなって思ったりして

どうせそんなのくるわけないんだ

そんな気の利いたやつじゃないんだ

分かってるのにね。

女ってほんとに、我ながら、めんどくさい。

 

こんな知らない土地に、何があるかなんてわからないから

わたしはすぐに居場所をなくすことができる。

なくしてしまえる。

 

そこにあなたがいなければ、何も無い。

 

帰路につこうか、まだ迷っているわたしに、嫌気がさす。

 

 

 

自己同一性と余白

 

 

 

自分のことが信用できないのだ。

信じたい人を信じる その中に自分はいない。

 

傷つけたくない人を守るために、わたしができること

自分を信用しないことだ

 

いつだってわたしはわたしを裏切ってきたし

これからだって保証することはできない。

ただそんな自分にもひとつだけ守り続けた

守り続けられたことがあって

それは毎日死にたいと思うことだ。

 

そう思うたび、そのことについて、わたしはわたしを裏切らなかった、と安堵する。

わたしにとって、何にも代え難い自己肯定である。

これがわたしの自己同一性。

何にも侵すことはできない。

 

きっとこの世界には、死ぬこと以上の希望があるのだろう。

愛があるのだろう。安寧があるのだろう。

それでもわたしは死を通して世界を見ていたい。

それをわたしは死生観と呼びたい。

 

 

傷つけたくない人を守るために、わたしができること

自分を信用させないことだ

 

複数人を一度に愛せてしまう自分は

器用なように見えて 不器用なのだ。

感情をコントロールできていないから。

対処法は「誰とも話をしないこと」

 

 

そんな自分を もう諦めた自分がいて

わたしはいつも恋人に束縛を求める

それでもわたしは誠実でいたいのだ。

きっと、笑われてしまうのだろうと思う。

 

 

 

言葉を、思考を、思案する。

メッセージ性のない自分の言葉を信用したい。

 

伝えるべき事の全ては綴らない。

それは誤解ではなく、余白

 

 

 

 

 

大多数のための自己満足

 

 

 

自分は自分、人は人っていう考え方が強いから、理解出来なくてもふーんって言う。がんばれって思う。


そのうちのひとつがボランティアとかNPOとかっていうもので、お金の絡まない厚意はどうしても信用ができない。

 

自分も見返りなくなにかをすることが出来るけれど、顔も知らぬ多数の他人に何か をするのは無理だ。
でもそれができる人間が集まってボランティアだとかNPO法人だとかが成り立つわけだけれど、どうしても純粋な気持ちだけでやっているとは信じられないんだよね。

信じられないだけで本人はもしかしたらそのつもりかもしれないから、や っぱりまた「ふーん」って言うしかないんだけれど。


それにはきっと学生時代のボランティア募集が影響してる。

「◯◯部は全員参加」とか、「何回ボランティア活動に参加すれば内申点がいくらもらえる」とか、ボランティアって見返りを求めず社会貢献することなのに、

まさにその見返りをぶら下げてボランティアに参加させようというのだ。社会に貢献するという意識は全く持てない。


そういうことをしてる自分が好きだからボランティアをやってるんだろ、って言うのが理解できない側の認識ではある。

でもそれだけじゃなくて、無意識に優越感を感じてるんじゃないかと思う。

大抵ボランティアは受け身でしかいられないものや弱者のために行われると思っているから。


この間わたしも全然知らないインターネットの人に食料を送ったりしたけれど、 やっぱりそれも「そういうことをできる自分でいたいから」っていう自己満足だった。

ひとまずボランティアをする人は、それが自己満足ということは認めるべきだと思う。

というのも、自分がどこかで利害関係がなしに成り立つものは限りなく少ないと考えているから。

その「利」は経験だなんて青臭いのはひとまず置いておくとし て。


結局さ、偏見が多いこの時代にお金の絡まないボランティアなんて慈善行為、手放しには信じられないんだよね。

それはきっと、心がきたないからなんだろうけどさ。

 

 

 

 

    

 

優しすぎるあなたへ。