To me

優しすぎるわたしへ。

自己同一性と余白

 

 

 

自分のことが信用できないのだ。

信じたい人を信じる その中に自分はいない。

 

傷つけたくない人を守るために、わたしができること

自分を信用しないことだ

 

いつだってわたしはわたしを裏切ってきたし

これからだって保証することはできない。

ただそんな自分にもひとつだけ守り続けた

守り続けられたことがあって

それは毎日死にたいと思うことだ。

 

そう思うたび、そのことについて、わたしはわたしを裏切らなかった、と安堵する。

わたしにとって、何にも代え難い自己肯定である。

これがわたしの自己同一性。

何にも侵すことはできない。

 

きっとこの世界には、死ぬこと以上の希望があるのだろう。

愛があるのだろう。安寧があるのだろう。

それでもわたしは死を通して世界を見ていたい。

それをわたしは死生観と呼びたい。

 

 

傷つけたくない人を守るために、わたしができること

自分を信用させないことだ

 

複数人を一度に愛せてしまう自分は

器用なように見えて 不器用なのだ。

感情をコントロールできていないから。

対処法は「誰とも話をしないこと」

 

 

そんな自分を もう諦めた自分がいて

わたしはいつも恋人に束縛を求める

それでもわたしは誠実でいたいのだ。

きっと、笑われてしまうのだろうと思う。

 

 

 

言葉を、思考を、思案する。

メッセージ性のない自分の言葉を信用したい。

 

伝えるべき事の全ては綴らない。

それは誤解ではなく、余白

 

 

 

 

 

大多数のための自己満足

 

 

 

自分は自分、人は人っていう考え方が強いから、理解出来なくてもふーんって言う。がんばれって思う。


そのうちのひとつがボランティアとかNPOとかっていうもので、お金の絡まない厚意はどうしても信用ができない。

 

自分も見返りなくなにかをすることが出来るけれど、顔も知らぬ多数の他人に何か をするのは無理だ。
でもそれができる人間が集まってボランティアだとかNPO法人だとかが成り立つわけだけれど、どうしても純粋な気持ちだけでやっているとは信じられないんだよね。

信じられないだけで本人はもしかしたらそのつもりかもしれないから、や っぱりまた「ふーん」って言うしかないんだけれど。


それにはきっと学生時代のボランティア募集が影響してる。

「◯◯部は全員参加」とか、「何回ボランティア活動に参加すれば内申点がいくらもらえる」とか、ボランティアって見返りを求めず社会貢献することなのに、

まさにその見返りをぶら下げてボランティアに参加させようというのだ。社会に貢献するという意識は全く持てない。


そういうことをしてる自分が好きだからボランティアをやってるんだろ、って言うのが理解できない側の認識ではある。

でもそれだけじゃなくて、無意識に優越感を感じてるんじゃないかと思う。

大抵ボランティアは受け身でしかいられないものや弱者のために行われると思っているから。


この間わたしも全然知らないインターネットの人に食料を送ったりしたけれど、 やっぱりそれも「そういうことをできる自分でいたいから」っていう自己満足だった。

ひとまずボランティアをする人は、それが自己満足ということは認めるべきだと思う。

というのも、自分がどこかで利害関係がなしに成り立つものは限りなく少ないと考えているから。

その「利」は経験だなんて青臭いのはひとまず置いておくとし て。


結局さ、偏見が多いこの時代にお金の絡まないボランティアなんて慈善行為、手放しには信じられないんだよね。

それはきっと、心がきたないからなんだろうけどさ。

 

 

 

 

    

 

信じるということ

 

わたしは人をすぐ信じる

信じたいから。

自分が信用しなければ、同じものは返ってこないから。

 

人を信じない人がわたしに言う

「裏切られて傷付くのが怖くないの」

たしかに裏切られて傷付くことはたくさんあった

それでも信じることをやめようとは思わなかった

 

じゃあ誰を信じる?

正しい人?長く時間を共にした人?嘘をつかない人?聖職者?

わたしは好きな人を信じる

信じたいと思った人をほとんど無条件で信じる

裏切られてもいいやって思った人を信じる

 

信じた自分を誇りたいから

信じることができた自分を誇りたいから

信じられる人だから信じたわけじゃない

ただわたしが信じたかったから信じた

裏切られて、傷付けられるとしても。

 

わたしはバカだから、信じてはいけない人を信じてしまうことだって少なくない

でもだからなんだっていうの

それでもいいと思った

たくさん傷付いた

それでも人を信じることをやめたくない

信じて裏切られてついた傷の数は 信じきれたという証になる

それはわたしの勲章だから

それはあなたの勲章になるから

 

ただ、これが本当に信用と呼ぶに値するのかは謎のままだ。

 

 

 

 

 

きみが腕を切る理由

死にたいからじゃない。

助けてもらいたいからだ。

 

腕を切っても死ねないことは、分かっているはずだ。

アピールがうざいだとか、気持ち悪いだとか、死にたいなら死ねとか、そういうことは言われてきただろうし、これから言われるだろう。

でも知っていてほしい。

きみには必ず味方がいる。

この世界のどこかに、必ず。

もし「誰もいない」と思うのなら、わたしがなろう。

きみの気持ちを聞かせてほしい。

どんなことでもいい。

誰がきらいだとか、好きだとか、何をされたとか、してしまったとか。

 

断言しよう。きみの悩みは一過性のものだ。

きみが今死にたいと思っているのも、一過性のものだ。例外はない。

ただその期間を、ひどく長く感じてしまう。

きみの前にはまだ道が続いているのに。

今きみが信頼できる大人にその気持ちを委ねてくれるのなら、きみは生き長らえる。生き長らえてしまうのだ。

信頼できる大人がいないと思うのなら、わたしに委ねてほしい。否定しないし、裏切らないことを約束する。

ひどくつらいことに聞こえるかもしれない。

希望など見えないのだろうと思う。

ほかの人は平気でも、自分だけは無理だと思うのだろう。

そうしてきみは死にたい気持ちを抱えて、

死にきれず、生きる。

今きみが辛いのなら、わたしに話してほしい。

泣いてもいい。腕を切ってもいい。

わたしはそれを受け止めるし、笑ったりしない。

それでもきみが死にたいと思うのなら、わたしはそれも受け止めたいと思う。その気持ちごときみを抱きしめようと思う。

 

大丈夫、きみは大丈夫だ。

今までよくがんばったね。  

 

 

 

 

  

 

優しすぎるあなたへ。